しかも、そこでの有利不利は、知識への接近の機会と、利用する個人の知的能力の差に結びついている。
知識の活用能力の格差拡大は、情報公開を基軸とする民主社会の基盤をも弱体化させる可能性があることは否定できないだろう。
このようなグローバル化の影響が強まる中で、規制緩和によってプロセスへの統制を縮小した行政にとって、個人の選択基準となる情報=評価尺度を提供することか新たな役割となる。
こうした行政の対応は、欧米の社会学者が「評価国家」と呼ぶものである。
ところが、日本では、大学教育の場合はひとまずおくとして、こうした政策評価の議論さえほとんど巻き起こらないまま、改革が行われてきた。
教育改革の議論の場では、教育の不平等を論じるための基礎的データさえ未だに存在しない始末である。
学力低下論に押されて、M科省は全国学力調査を実施したが、低下論かなければ、この調査も行われなかったかもしれないのだ。
自己選択.自己責任の名のもとに進行する規制緩和は、社会的な階層間格差や地域間格差を拡大せざるを得ない。
選択を可能にする資源自体が不平等に存在するためである。
一方で、国家の保護は弱まり、「自己責任」の論理が強められる。
このような趨勢の中で、税金によって運営される公教育が、こうした格差の拡大にどのような対策をとり、どのような成果を上げているのか。
ネオリベラリズム流の、「強い個人の仮説」を子どもにまで求める議論からも、大衆教育社会の下での子ども中心主義の議論からも、このような論点は出てこない。
こうした国家の役割変化の趨勢を念頭におけば、学力低下論争における実態把握の欠如が、たんに学習指導要領の改訂のための情報不足だったというだけではないことがわかるだろう。
教育政策においては、政策の評価によるフィードバクという発想自体がきわめて弱かった。
国家の役割が、プロセスの管理から次第に退却し、自己責任の論理が強まる中で、行政の説明責任の基盤となるはずの実態把握の必要性はいや増してくるのである。
誰が、何のために、どのような評価を行うのかここにおいて、自己責任については問われても、制度の評価については論じられることのなかった意味が浮かび上がる。
制度の評価という問題をも、点数主義や競争主義へのアレルギー体質でしか受け止められなかった日本の教育論の限界である。
M科省が、学習指導要領の実施状況調査を渋った理由のひとつとして、かつての「学テ闘争」の時の苦い経験があったと言われる。
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